ジャムセッションをなぜ「ジャ
ム」セッションというのか?
なんて話は前に書いたんですが。
で、そこで私の「推し」(?)の説と
して、黒人と白人のリズムの取り方が
違うので、リズム(グルーブ)が「ジ
ャムってしまう(詰まってしまう)」
から、というの上げたんですね。
そもそもジャムセッションなんていう
のはつっかえたり、ひっかかったりす
るものだ、ということではないか?
と思ったわけです。
というか、今もそう思うわけですが。
ジャムセッションというのは自由なも
のだ、そうあるべきだ、という考えは
あるわけで、実際そうだと思いますが。
自由であるがゆえに、いろいろやらか
す、やらかすことが許容される、とい
う場がジャムセッションだろうとも思
うわけですよね。
ジャムセッションを失敗なく乗り切る
コツ、なんていう話を聞きたいと思う
人は多いかもしれないけど、それって
そもそもある意味矛盾した話ではある
わけです。だって「ジャム」りに来た
んでしょう、あなたは? なんてね。
ジャムセッションというモノには「自
ら望んで“詰まりに行く”という、創造
的覚悟がある」のではないか? と、
まあこれは私ではなく ChatGPT くん
が言ってました。
「だからこそ、そこには真の自由があ
るのかもしれない。自由とは『放って
おかれること』だけではなく、『自分
の意志で、誰かと詰まりに行くこと』
でもあるのだ」……だそうです。
だいぶ賢くなりましたなあ、ChatGPT
くんも。
でもま、ちょっと大げさな気もします
が。恥ずかしくて私だったら書けませ
ん(おいおい)。
て、ことで。
それでは、また ( ̄▽ ̄)