AかBか決められないワタクシ? 決めたくないワタクシ?

ノゴトについて語る時、それ
AかBかのどっちかだよ、とい
ういい方で話を進めること結構あ
りますよね。

 

そんなときすぐに納得して、そうだ、
だからこっちだ、というように決定
きる人ですか? 皆さんは?

 

は、どうもそういうのって昔から苦
というか、そもそも2つのうちのど
っちかだっていうのはホントかな? 
とか考えてしまうんですよね。

 

人間の脳というのは記憶を書き換えて
しまうものらしいので、昔からこうだ
とかいう話も結構あやしかったりしか
ねませんが、それだと話がどんどんや
やこしくなるので、ここではまあそう
いうことだと思ってください。

 

で、そんなとき、私の考えがどういう
方向に向かうかというと、AでもBで
もない行き方(とかやり方とか)が
はあるんじゃないかとか、そんなこと
を少なくとも一度は考えずにいられな
んですよね。

 

まあ、それは優柔不断とか、あまのじ
ゃくとか、そういう奴だよねといわれ
ることにも繋がりかねないわけですけ
どね。

 

なので、

 

音楽、例えばコード理論の話なんかで、

 

コード盛り上がりか落ち着きかのど
ちらか2種類で捉えるんだ

 

とか言われると、なるほどと思う一方
で、え? でもホントに2種類しかな
いのかな?とか思ったりもするわけで
すね。

 

もちろん、リアルタイムでどんどん
行していくセッションの中とかでアド
リブソロを弾くなんて時に、二択よ
り多い選択肢で考えていられない、と
いう理屈実用上の有用性否定する
わけではないんですけどね。

 

でも一方で、そういう二択でこうだ、
という考え方に対して、一度は一歩引
いて考えてみる、というあり方は大切
にしたいとも思うわけです。

 

え? めんどくさい奴?

 

皆さんは、いかがですか?

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

試してみる。色々変えて?

器の演奏とかしていて、
定のフレーズを覚えなきゃいけ
ない、きちんと弾けるようにな
らなきゃいけない、なんてこと
ありますよね。

 

ジャム・セッションなんて、わりと演
奏の自由度の高いことやっていても、
によってはお決まりのフレーズを弾
く必要なんてことがあったりします。

 

たとえば? そう「サー・デューク」
のあのフレーズとか。

 

で、

 

そんな時、だいたいとにかく毎回同じ
ように正確に弾こうと人間しがちじゃ
ないですか。最短できっちり弾けるよ
うにしようと思いますからね。

 

ところが、最近ヴァイオリニストでも
ある例の心理学者ノア・カゲヤマ
んのブログを読んでたら、実は毎回毎
回きっちり同じように弾くことを心が
けるよりは、

 

毎回ちょっとずつ変化させてみる

 

のがいいらしい、なんてことが書いて
あったんですね。

 

ちょっと大きい音で、あるいは小さい
でとか、ビブラートを強めにかけて
みるとかみないとか。色々試してみた
ほうが、最終的に毎回きっちり同じよ
うに弾こうとするより、最終的に上手
に弾けるようになる、らしい、という
ことでして。

 

それから、そうやって色々変えて試し
てやってみた方が、長期的に記憶に残
りやすいようだ、なんてことも書いて
ありましたね。

 

まあ、ご興味のある方は、カゲヤマさ
が(英語ですけど、まあ最近は Web
翻訳なんてのがありますから)、なん
か、ああそういうもんだよなあ、なん
妙に納得したりしたのではありまし
た。

 

こと楽器の演奏に限らず1つのこと
をやるにしても色々ちょっとずつ変え
ながら試してみるのが、結局上手くい
くコツってことではないかな、と。
にしても趣味にしてもね。

 

あまり、1つの考えとか理念にとらわ
れすぎて、色々やってみる余裕がない
のはよくないのでは、と。あ、それは
また別の話か。

 

て、ことで、

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

セッション・「コミュニティ」の難しさ?(続き)

ちらの続きでございますが。

 

ジャム・セッションコミュニティ的
なものが出来て、それを維持していこ
うとすると、結構微妙なさじ加減がい
るので、そう簡単ではないんじゃない
か? というような話でした。

 

ジャム・セッション愛する人たち
て、バンドによくあるような縛りの強
い関係は苦手な人も多いと思うんで、
まあ、そうだよね、と頭では理解でき
と思うんですけど。

 

でも、実際に前回も書いたような、良
い意味での(なのか?)いい加減さ
か、ユルさとかを維持するのって、
外難しいのかも、と最近思うわけです。

 

だいたい、「ユルさを維持」ってのも
変な日本語といえばそうなわけで。
なんだか不誠実なんだかよくわから
ですよね。

 

でも、そこらへんがキモだったりする
んじゃないか、と思うんですね。

 

で、

 

そんな結構綱渡り的なことをやってる
わけですが、マジメな人とか、自分に
自信のある人とか、よくいわれるよう
しっかりとした「自分」のある人
と、

 

コントロール効かせ過ぎてしまう

 

ということがあったり、あるいは自分
の考えと違うメンバー目についたり
すると

 

リセットしてゼロから始めたがる

 

とか、そんな方向に行ってしまったり
しがちかも、なんてことを思うんです
よね。

 

で、結局コミュニティは広がらない、
というか、考えが少しぐらい違ってて
ゆるく繋がれば良さそうなところを
内に閉じこもってしまうとかね……

 

まあ、それでいいなら、それでもいい
んでしょうけどね(←意味不明)。

 

なんてことを、あまり確たる自分のな
い私は思う今日この頃であるなあ、と
秋の一日考えたというお話でした。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

セッション・「コミュニティ」の難しさ?

ャム・セッションをやりた
い人を募って・集めてやってる
んですけど、私

 

もう結構長くやってまして、そうする
と、おなじみの方もできてきて、ある
種コミュニティみたいな感覚も生まれ
るわけですね。

 

ジャム・セッションのコミュニティ

 

ですが、良く考えてみると、これって
結構自己矛盾的というか、難しさを孕
んだ概念だよなあ、と思ったんですね。

 

といっても話としてはそんな小難しい
話でもないんですが、ジャム・セッシ
ョンてバンド活動じゃないんで、そも
そも

 

一過性のもの

 

じゃないですか。

 

そのコミュニティってなんだろうなあ
と思うわけですよ。

 

もちろん、そういうコミュニティ
って悪いってことじゃないんですが、
あまりガチガチの縛りの強い形にする
というのはなんかそもそもの趣旨に反
するというかね、そう思ったりもする
わけで。

 

だから、コミュニティといいながらも
ある種の

 

スカスカ感とか、不安定感とか、一過
性感とか、気まぐれ感とか

 

を(ある種意図的に?)残しておきた
なあ、なんて考えるんですね。

 

良い意味でのいい加減さといいますか
ね。とはいえ、けっこうそれはそれで
難しいさじ加減なんじゃないか、なん
てね、自分でやっててなんですが、思
うわけです。

 

ちょっと続きます。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

ノンリニアな時代にリニアなセッションをやることについて

ニアなメディアあるいは
テンツという用語を聞かれたこと
はありますか?

 

デジタル時代の現代ではわりとよく聞
かれる言葉ではと思うのですが、要は
「初めから終わりまで、一直線に連続
した形で見て(聞いて)もらえること
を想定した」メディアやコンテンツと
いうことです。リニア(linear)とい
う言葉ライン(line = 線)の形容詞
んですね。

 

たとえば昔のレコードやカセット・テ
ープリニアなメディアですね。映画
も(映画館で見る映画に限定すれば)
リニアなコンテンツですね。

 

本は必ずしもリニアなメディアとは言
えませんが、小説といったコンテンツ
は基本的にリニアに鑑賞されることを
前提としていますよね。ビジネス書と
かは別でしょうけど。

 

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一方、今主流のデジタル化されたメデ
ィアやコンテンツはノンリニアな傾向
のものであるといえます。ネット上に
あるコンテンツは基本的に頭から順を
追って見たり・聞いたり・読んだりす
「必要はない」ですよね。

 

YouTube にアップされている動画や、
私を含めていろんな人たちが書いてい
ブログの記事も、基本的には昔の映
画や小説のような見方・読まれ方はさ
れないと思うべきでしょう。

 

で、

 

翻って、セッションあるいはバンドで
の(生の)演奏はどうかというと、こ
れはお察しの通り、きわめてリニアな
コンテンツなわけですね。

 

演奏の最中「悪いけどこいつのギタ
ーソロは飛ばしてエンディングに行こ
う」とかCDや iTunes や YouTube では
簡単にできることがセッションライ
とかではできませんよね。当たり前
ですが。

 

これは、考えてみれば現代ではなかな
か希有なことでして、コンテンツをリ
ニアな形で鑑賞することを当たり前の
ように強制(?)できるのはミュージ
シャンと(劇場公開時の)映画監督
舞台関係くらいのものかもしれません。
(あと、まあテレビもそうか。でも
というものが家庭で出来るようにな
ってからはちょっと違いますよね。)

 

ある種の特権的な事なのかもしれない
のですが、一方でこうしたコンテンツ
見る・見ないとか聞く・聞かないとか
オール・オア・ナッシングの二択でば
っさり切られやすい、ということもい
えるわけでして。

 

そんな時代なのでリニアなコンテンツ
に関わるということにはある意味なか
難しいものがあるのですよね。

 

そして、コロナという感染症の影響も
あって多くのコンテンツノンリニア
な方に流れていきました。もうそれで
いいじゃないか、なんて考える人も結
構いるかもしれないんですが。むしろ
ムダがなくていいとかね。

 

それでも、リニアなコンテンツにある
過剰さムダともいう)とか、そうし
た過剰で余計なものから生まれる新た
な気づきとか関係とか。そういったも
のがやはりわれわれには必要ではない
、とか。おじさんはそう思うんです
けどね。

 

別に誰に熱く語る気もないですが(な
いのかい)、そんなことをちょっとだ
け考えて、リアルなセッションをやっ
てます。

 

て、ことで。

 

では、また ( ̄▽ ̄)

名人・達人は○○される時代である?

の中には名人とか達人と呼ば
れるミュージシャンがいて、そん
な達人たちに憧れを抱く人も多い
わけです。

 

これを読んでいる人たちにも、こんな
すごいテクニックとかとかを使える
プレイヤーになりたいとか思う憧れの
対象がいるかもしれません。

 

で、

 

昔はそういう名人とか達人とかいうよ
うなテクニックのある人は少ない、と
思われていたわけですよね。

 

レコードCDラジオテレビとい
ったメディアを通じてとか、そんな
ートでそんな人たちがわれわれの目や
耳に届くのは、そんなにしょっちゅう
あることではなかったわけです。

 

そんな制約の中で名人・達人の「希少
性」というのは担保されていたように
思うのですが。

 

ところが、

 

最近では誰でも自ら発信しようと思え
発信できるようになってしまいまし
たからね。そうすると、

 

実は、世の中にはテクニックに優れた
人は山ほどいる

 

ということが分かってきてしまった
けです。

 

YouTube とか観ればそんな人たちが
こにでもいやになるほどいる、という
ことが明らかになってしまいました。
AI の進歩によってもそんな状況は加速
していくのでしょう。

 

いまや、そんな「名人・達人」は、
間的な大量(?)消費の対象になって
しまったんですね。今どきの用語でい
えば、

 

コモディティ化

 

してしまったわけです。

 

なので、別にテクニックに優れている
からといって、質の高いものを生み出
しているからといって即ウケるわけで
も感心されるわけでも、ましてや売れ
るわけでもないという、なかなかある
意味では切ない時代になったなあと、
思ったある一日、というお話でござい
ました。

 

あ、別にだからといってテクニック
を身につけるということに意味がない
とか、名人を目指すなとか、主張する
気はありませんので。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

 

努力する時 vs. 手持ちでなんとかする時?

間、何かを習得しようとす
るときには少しずつでも成長
ようと思うわけですね。たぶん。

 

音楽でも同じで、楽器の演奏なんても
のはいろんなこまかい技術の習得の積
み重ねの上に成り立っていえるわけで
すよね。まあ、知識的なこともありま
すけど。

 

ですが、演奏のテクニックとかそうい
う特に人の身体性に関わってくるもの
については、

 

どこかで限界が見えてくる

 

ということもあるわけです。まあ壁に
ぶつかるというかね。天井でもいいで
すが。

 

特に、アラカンとかそれ以上になると
そりゃ身体的に衰えもするわけですよ
ね。

 

いやそうじゃない、そんなものに限界
はないとか、努力しだいだとか、そん
な議論もあるかもしれませんが、そう
いうポジティブ一辺倒でこられても、
なかなか前に進める人は多くないので。

 

それで心病んだりしてもつまらない
でね、

 

とりあえず手持ちのものでなんとかす

 

というような発想で臨むことが必要に
なってくるんではないか、と思うわけ
です。

 

その一方、

 

だから努力が 100% 不要であるとか、
そこまで大上段に構える必要もない
思ったりもするわけです。

 

人間その人、その立場とか状況とか、
そういうものによって、どこまで努力
するか、手持ちでなんとかするのか、
配分を考えるのが良いのではないか。

 

そんなことを、とある休日音楽仲間と
お酒を飲みながら考えた、というよう
なお話でございました。

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

時には跳んでみる?(メロディーも人生も?)

ール・ポータという人の書
いたスタンダード・ナンバーで
 “I Love You” というのがありま
す。▼▼▼

 

すごくどストレートなタイトですよ
ね。歌詞の方も「春がまたやって来て
/鳥たちも再び翼を広げ」とかそんな
わりと陳腐な感じのフレーズが入って
たりするんですが。

 

これ、実はコール・ポーターが友人
こういうタイトルこんな歌詞を使
って素晴らしい曲を作ってみろ、とい
挑戦を受けて、それで書いた曲なん
だそうです。つまりポーターらしいヒ
ネリのないタイトルや歌詞で良い曲を
かけるか? というわけでして。

 

結局この曲はミュージカルの中で使わ
れて、その後ビング・クロスビーが歌
ってヒットし、スタンダードナンバー
になるわけなんですね。つまりポータ
ーの勝ちだったわけです。

 

「素晴らしいメロディーは凡庸な歌詞
を凌駕する」とかポーターはいってた
らしいですが。

 

でね、

 

ポーターの言うようにこの曲はメロデ
ィーに特徴がありまして。曲の冒頭
そのまさに I Love You という歌詞に
あわせて、上の C から下の Db に跳ぶ
というところがあるんです(ちなみに
よく演奏されるキーFでの場合です)。

 

つまり、長7度下跳び降りている
ですね。この冒頭部分につけられた
ード(サブドミナント・マイナー系)
とともに意表をつく出だしとなってま
して、この冒頭部分によってこの曲の
印象はほぼ決まっているといっても過
言ではないかも(まあ中間部の転調と
か他にもなくはないですが)。

 

曲を作る時、流れるような綺麗に音の
つながったメロディーを生み出したい
と思うことも多いですが、印象に残る
メロディラインが生まれるのは、音の
跳躍が挟まれたときだったりします。

 

つまりスケール上のとなり(たとえば
メジャースケールだったらド→レとか
ソ→ラとかですね)やすぐ近くの音
動いていくのではなく、ちょっと遠い
音へと跳ぶ動きが生まれた時ですね。

 

もちろん年がら年中跳びまわっていて
も落ち着かないので、バランスではあ
るのですけども。

 

人間も、人生でときには日常に流され
ずに「跳ぶ」ことが求められることが
あるのと一緒かな? なんて思ったり
して……あまり関係ないか。ま、でも
そんなことをちょっと考えた、と。

 

※原文は:It’s spring again / And 
birds on the wing again

 

て、ことで。

 

では、また ( ̄▽ ̄)