感情も労働する?

はや現実世界のビジネス
動についてはあまり関わりのな
くなった私ではあるのですが。

 

それでもまあ世の中のビジネス関連の
記事なんかをつい惰性で(こらこら)
読んでしまうことがありまして。そん
な中で読んだ記事に、

 

感情労働

 

という言葉があったんですね。

 

世の中には肉体労働というものがあり
ますね。体を使って労働するわけです
が。それに対比させる意味で作られた
言葉だと思うんですけど。

 

感情を使って、つまり自分の感情をう
まくコントロールすることで労働する
というね。サービス業なんてのは、そ
んな労働のかたまりかもしれません。

 

たとえば、「笑顔」でサービスする仕
事とかが典型的ですかね。メニュー
0円とか書かれてますけど。

 

そういう仕事は肉体的労働ではないけ
ど、疲れる心を病んだりするリスク
もあるって話なんですが。

 

で、

 

私が読んだ記事で面白いと思ったのは
CEO とかいわれるエライ人たちも、そ
んな感情労働が要求されてるんだとい
う話でして。

 

彼らはトップとして自信満々に振るま
わなければいけないし、責任を問われ
るような決断を常にしなくてはいけな
かったりとかね。そんな消耗にさらさ
れているんだというわけです。

 

リーダーであるがゆえの感情的な負荷
も大きいという話ですね。

 

で、まあ

 

そういった「感情労働」っていうのは
大企業の CEO じゃなくても、自分を
何かのリーダーだと思って行動しよう
とするとつきまとう話かな、と思った
わけですね。

 

音楽的な活動なんかでもそんなプレッ
シャーにさらされて病んでしまう人
いるよなあ、とか。思ったりもするわ
けです。

 

バンドなんかでも、活動が上手くいか
ないと人間関係が危機的になったりと
か、上手くいけばいったで、次の一手
を間違えないように決断しなきゃ、と
かね。

 

そして、おそらくそういう時に助け
なるのは色んなネットワークとか、立
場が違ってもゆるく繋がっている人た
だと思うんですが。

 

逆に自分の世界にこもって、そういう
つながりを断ち切ろうとする人も多い
んですよねえ。

 

ま、いいんですけどね(いいのか?)

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

「良い」演奏とは何かを(いろいろ)考える

ンドであれ、ソロであれ、
ジャムセッションであれ、音楽
を演奏しようという時は、だれ
「悪い」演奏をしようとは思
わないわけで。

 

まあ、たまに変なことを考える人もい
るので絶対にないとは言いませんが。

 

普通何かしら「良い」演奏をしたい
と思うのだろうとは思うんですが。

 

じゃあ、その「良い」演奏というのは
どういうものか、というと、案外深く
考えてなかったりするんじゃないか
思うわけですね。

 

というか、そもそもこれが「良い」演
であるという唯一の基準というもの
あるのか、というとそういうわけで
もないので。

 

その人その人で、実はいろいろ違って
いたり似ていたりということがあるわ
けです。

 

技術的に正確間違いがないというこ
となのか? 自分の表現したいことが
出来ることか? 観ている(聴いてい
る)人が喜ぶことか? とかまあ、い
ろいろ。

 

そして、演奏する側演奏を聴く側
も、「良さ」の基準は変わってくる
けですよね。

 

なので、

 

「良い」演奏をしようと思うこと自体
は別にいけないとは思わないのですけ
ど、そもそもその「良い」演奏は誰に
とってのどんな演奏なのかたまに考
えてみるのもよいのかな、とも思うわ
けです。

 

曲がありまして。

 

酒が飲める理由をとにかくいろいろ上
げていく歌ですが(笑)

 

おんなじように演奏が「良い」理由
色々な視点でリストアップしておくと
いいのかもしれません。それが必ずし
誰もが納得する理由でなくてもいい
と思うんですよね。

 

リストのうちの1つでもできたとした
ら、それはなかなか立派な達成といえ
るのではないか、と。

 

そんなことを考えたヒマな一日があっ
た、ということなんですが。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

いろいろ○○く関わりたい願望

の前のAかBか決められな
(決めたくない)話にも関係する
んですけど。

 

いろんな知識とか、音楽ジャンル
理論とか、楽器テクニックとか、
ガッチリ自分のモノにしたい、とい
欲求の強いほうですか? 皆さんは。

 

もちろん、モノゴトへのそういう関
り方悪いとはいいませんし、それが
必要な人生の局面(やや大げさですが)
あることも確かだとは思うのですが。

 

が、

 

この年になったからなおさら、という
のはあるかもしれませんが、私はとい
えば、

 

なるべくいろんなことにユルく関わっ
て、ユルく知識を得たい

 

と思う方なんですよね。

 

1つのジャンルのものとかに、深くか
らめとられたくない、というかね。ま、
ビビりといわれればそうなのかもしれ
ませんが。

 

なので、あんまり縛りのキツイこと
いわれると、基本的には敬して遠ざけ
という方向になりがちなんですね。

 

これはこうでなきゃいけない、とか、
グルーヴはこうでなければならぬ、と
か(おいおい)。あんなものはダメ
害にしかならない、とかね。

 

まあ、SNS なんてそんな発言ばかり
すが。

 

そういうの聞く(見る)と、なんか引
いちゃうんですよね。

 

なんか、それよりユルく色々かかわる
ことで、自分を通り抜けていったモノ
が、何か別のモノにつながるような気
がしなくもない、と思えるんじゃない
か、と。

 

大変ユルく思っているのですが。

 

え? 頭の中までユルくなる?

 

それがいいんじゃないか、と思うんで
すけどねえ。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

下手になったと思った時がチャンス? なの?

楽やっていると、この曲は
まくやれるとか、自信があるとか、
そんな曲がだんだん出来てきたり
します

 

え? ない?

 

……

 

話を進めますが(おい)。ところが、
あるときそんな自分でも上手くやれる
自信のある曲を弾いたり・歌ったりし
たら、

 

なんか下手になった……

 

と思うことがあったりしませんか?

 

経験のある人も多いかと思うんですけ
ど、そんな時ああもう俺はダメだとか
までは思わないにしても、ショック
悲観的になりやすいんですが……

 

まあ、ぶっちゃけ私にもそういうこと
はあるわけでして。

 

で、

 

以前、哲学者小説家としても活躍
ている、千葉雅也さん

 

クオリティが下がるのは(その人が)
変化している時

 

というようなことを YouTube の動画
かなにかでおっしゃっていたのを思い
出したんですよね。

 

で、千葉さんの X (Twitter) の発言など
を見返していたら、

 

「クオリティの維持をやめないと変化
は起きない。それが、再現性から創造
性へ踏み出すということのひとつの表
現である」

 

ということを書いておられたのを見つ
けました。

 

まあクリエイティブといわれる活動
全てについていわれているとは思いま
すが、音楽もその例に漏れないだろう
と思われるわけで(ちなみに千葉さん
は、音楽も演奏されますね。ピアノ
弾かれます)。

 

なので、以前は良かったはずの自分の
演奏のクオリティがなんだか落ちてい
と感じたという時は、実は何か自分
に変化が起きている、そんなチャンス
だと思うのが良いのではないか。など
考えたのではありました。

 

そんなわけで、私の文章がなんか下手
になったなあ、などと思われたら、そ
れは私が変わろうとしている時だ、と。

 

生暖かい目で見守っていただければ幸
でございます(こらこら)

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

AかBか決められないワタクシ? 決めたくないワタクシ?

ノゴトについて語る時、それ
AかBかのどっちかだよ、とい
ういい方で話を進めること結構あ
りますよね。

 

そんなときすぐに納得して、そうだ、
だからこっちだ、というように決定
きる人ですか? 皆さんは?

 

は、どうもそういうのって昔から苦
というか、そもそも2つのうちのど
っちかだっていうのはホントかな? 
とか考えてしまうんですよね。

 

人間の脳というのは記憶を書き換えて
しまうものらしいので、昔からこうだ
とかいう話も結構あやしかったりしか
ねませんが、それだと話がどんどんや
やこしくなるので、ここではまあそう
いうことだと思ってください。

 

で、そんなとき、私の考えがどういう
方向に向かうかというと、AでもBで
もない行き方(とかやり方とか)が
はあるんじゃないかとか、そんなこと
を少なくとも一度は考えずにいられな
んですよね。

 

まあ、それは優柔不断とか、あまのじ
ゃくとか、そういう奴だよねといわれ
ることにも繋がりかねないわけですけ
どね。

 

なので、

 

音楽、例えばコード理論の話なんかで、

 

コード盛り上がりか落ち着きかのど
ちらか2種類で捉えるんだ

 

とか言われると、なるほどと思う一方
で、え? でもホントに2種類しかな
いのかな?とか思ったりもするわけで
すね。

 

もちろん、リアルタイムでどんどん
行していくセッションの中とかでアド
リブソロを弾くなんて時に、二択よ
り多い選択肢で考えていられない、と
いう理屈実用上の有用性否定する
わけではないんですけどね。

 

でも一方で、そういう二択でこうだ、
という考え方に対して、一度は一歩引
いて考えてみる、というあり方は大切
にしたいとも思うわけです。

 

え? めんどくさい奴?

 

皆さんは、いかがですか?

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

試してみる。色々変えて?

器の演奏とかしていて、
定のフレーズを覚えなきゃいけ
ない、きちんと弾けるようにな
らなきゃいけない、なんてこと
ありますよね。

 

ジャム・セッションなんて、わりと演
奏の自由度の高いことやっていても、
によってはお決まりのフレーズを弾
く必要なんてことがあったりします。

 

たとえば? そう「サー・デューク」
のあのフレーズとか。

 

で、

 

そんな時、だいたいとにかく毎回同じ
ように正確に弾こうと人間しがちじゃ
ないですか。最短できっちり弾けるよ
うにしようと思いますからね。

 

ところが、最近ヴァイオリニストでも
ある例の心理学者ノア・カゲヤマ
んのブログを読んでたら、実は毎回毎
回きっちり同じように弾くことを心が
けるよりは、

 

毎回ちょっとずつ変化させてみる

 

のがいいらしい、なんてことが書いて
あったんですね。

 

ちょっと大きい音で、あるいは小さい
でとか、ビブラートを強めにかけて
みるとかみないとか。色々試してみた
ほうが、最終的に毎回きっちり同じよ
うに弾こうとするより、最終的に上手
に弾けるようになる、らしい、という
ことでして。

 

それから、そうやって色々変えて試し
てやってみた方が、長期的に記憶に残
りやすいようだ、なんてことも書いて
ありましたね。

 

まあ、ご興味のある方は、カゲヤマさ
が(英語ですけど、まあ最近は Web
翻訳なんてのがありますから)、なん
か、ああそういうもんだよなあ、なん
妙に納得したりしたのではありまし
た。

 

こと楽器の演奏に限らず1つのこと
をやるにしても色々ちょっとずつ変え
ながら試してみるのが、結局上手くい
くコツってことではないかな、と。
にしても趣味にしてもね。

 

あまり、1つの考えとか理念にとらわ
れすぎて、色々やってみる余裕がない
のはよくないのでは、と。あ、それは
また別の話か。

 

て、ことで、

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

セッション・「コミュニティ」の難しさ?(続き)

ちらの続きでございますが。

 

ジャム・セッションコミュニティ的
なものが出来て、それを維持していこ
うとすると、結構微妙なさじ加減がい
るので、そう簡単ではないんじゃない
か? というような話でした。

 

ジャム・セッション愛する人たち
て、バンドによくあるような縛りの強
い関係は苦手な人も多いと思うんで、
まあ、そうだよね、と頭では理解でき
と思うんですけど。

 

でも、実際に前回も書いたような、良
い意味での(なのか?)いい加減さ
か、ユルさとかを維持するのって、
外難しいのかも、と最近思うわけです。

 

だいたい、「ユルさを維持」ってのも
変な日本語といえばそうなわけで。
なんだか不誠実なんだかよくわから
ですよね。

 

でも、そこらへんがキモだったりする
んじゃないか、と思うんですね。

 

で、

 

そんな結構綱渡り的なことをやってる
わけですが、マジメな人とか、自分に
自信のある人とか、よくいわれるよう
しっかりとした「自分」のある人
と、

 

コントロール効かせ過ぎてしまう

 

ということがあったり、あるいは自分
の考えと違うメンバー目についたり
すると

 

リセットしてゼロから始めたがる

 

とか、そんな方向に行ってしまったり
しがちかも、なんてことを思うんです
よね。

 

で、結局コミュニティは広がらない、
というか、考えが少しぐらい違ってて
ゆるく繋がれば良さそうなところを
内に閉じこもってしまうとかね……

 

まあ、それでいいなら、それでもいい
んでしょうけどね(←意味不明)。

 

なんてことを、あまり確たる自分のな
い私は思う今日この頃であるなあ、と
秋の一日考えたというお話でした。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

セッション・「コミュニティ」の難しさ?

ャム・セッションをやりた
い人を募って・集めてやってる
んですけど、私

 

もう結構長くやってまして、そうする
と、おなじみの方もできてきて、ある
種コミュニティみたいな感覚も生まれ
るわけですね。

 

ジャム・セッションのコミュニティ

 

ですが、良く考えてみると、これって
結構自己矛盾的というか、難しさを孕
んだ概念だよなあ、と思ったんですね。

 

といっても話としてはそんな小難しい
話でもないんですが、ジャム・セッシ
ョンてバンド活動じゃないんで、そも
そも

 

一過性のもの

 

じゃないですか。

 

そのコミュニティってなんだろうなあ
と思うわけですよ。

 

もちろん、そういうコミュニティ
って悪いってことじゃないんですが、
あまりガチガチの縛りの強い形にする
というのはなんかそもそもの趣旨に反
するというかね、そう思ったりもする
わけで。

 

だから、コミュニティといいながらも
ある種の

 

スカスカ感とか、不安定感とか、一過
性感とか、気まぐれ感とか

 

を(ある種意図的に?)残しておきた
なあ、なんて考えるんですね。

 

良い意味でのいい加減さといいますか
ね。とはいえ、けっこうそれはそれで
難しいさじ加減なんじゃないか、なん
てね、自分でやっててなんですが、思
うわけです。

 

ちょっと続きます。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

ノンリニアな時代にリニアなセッションをやることについて

ニアなメディアあるいは
テンツという用語を聞かれたこと
はありますか?

 

デジタル時代の現代ではわりとよく聞
かれる言葉ではと思うのですが、要は
「初めから終わりまで、一直線に連続
した形で見て(聞いて)もらえること
を想定した」メディアやコンテンツと
いうことです。リニア(linear)とい
う言葉ライン(line = 線)の形容詞
んですね。

 

たとえば昔のレコードやカセット・テ
ープリニアなメディアですね。映画
も(映画館で見る映画に限定すれば)
リニアなコンテンツですね。

 

本は必ずしもリニアなメディアとは言
えませんが、小説といったコンテンツ
は基本的にリニアに鑑賞されることを
前提としていますよね。ビジネス書と
かは別でしょうけど。

 

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一方、今主流のデジタル化されたメデ
ィアやコンテンツはノンリニアな傾向
のものであるといえます。ネット上に
あるコンテンツは基本的に頭から順を
追って見たり・聞いたり・読んだりす
「必要はない」ですよね。

 

YouTube にアップされている動画や、
私を含めていろんな人たちが書いてい
ブログの記事も、基本的には昔の映
画や小説のような見方・読まれ方はさ
れないと思うべきでしょう。

 

で、

 

翻って、セッションあるいはバンドで
の(生の)演奏はどうかというと、こ
れはお察しの通り、きわめてリニアな
コンテンツなわけですね。

 

演奏の最中「悪いけどこいつのギタ
ーソロは飛ばしてエンディングに行こ
う」とかCDや iTunes や YouTube では
簡単にできることがセッションライ
とかではできませんよね。当たり前
ですが。

 

これは、考えてみれば現代ではなかな
か希有なことでして、コンテンツをリ
ニアな形で鑑賞することを当たり前の
ように強制(?)できるのはミュージ
シャンと(劇場公開時の)映画監督
舞台関係くらいのものかもしれません。
(あと、まあテレビもそうか。でも
というものが家庭で出来るようにな
ってからはちょっと違いますよね。)

 

ある種の特権的な事なのかもしれない
のですが、一方でこうしたコンテンツ
見る・見ないとか聞く・聞かないとか
オール・オア・ナッシングの二択でば
っさり切られやすい、ということもい
えるわけでして。

 

そんな時代なのでリニアなコンテンツ
に関わるということにはある意味なか
難しいものがあるのですよね。

 

そして、コロナという感染症の影響も
あって多くのコンテンツノンリニア
な方に流れていきました。もうそれで
いいじゃないか、なんて考える人も結
構いるかもしれないんですが。むしろ
ムダがなくていいとかね。

 

それでも、リニアなコンテンツにある
過剰さムダともいう)とか、そうし
た過剰で余計なものから生まれる新た
な気づきとか関係とか。そういったも
のがやはりわれわれには必要ではない
、とか。おじさんはそう思うんです
けどね。

 

別に誰に熱く語る気もないですが(な
いのかい)、そんなことをちょっとだ
け考えて、リアルなセッションをやっ
てます。

 

て、ことで。

 

では、また ( ̄▽ ̄)

名人・達人は○○される時代である?

の中には名人とか達人と呼ば
れるミュージシャンがいて、そん
な達人たちに憧れを抱く人も多い
わけです。

 

これを読んでいる人たちにも、こんな
すごいテクニックとかとかを使える
プレイヤーになりたいとか思う憧れの
対象がいるかもしれません。

 

で、

 

昔はそういう名人とか達人とかいうよ
うなテクニックのある人は少ない、と
思われていたわけですよね。

 

レコードCDラジオテレビとい
ったメディアを通じてとか、そんな
ートでそんな人たちがわれわれの目や
耳に届くのは、そんなにしょっちゅう
あることではなかったわけです。

 

そんな制約の中で名人・達人の「希少
性」というのは担保されていたように
思うのですが。

 

ところが、

 

最近では誰でも自ら発信しようと思え
発信できるようになってしまいまし
たからね。そうすると、

 

実は、世の中にはテクニックに優れた
人は山ほどいる

 

ということが分かってきてしまった
けです。

 

YouTube とか観ればそんな人たちが
こにでもいやになるほどいる、という
ことが明らかになってしまいました。
AI の進歩によってもそんな状況は加速
していくのでしょう。

 

いまや、そんな「名人・達人」は、
間的な大量(?)消費の対象になって
しまったんですね。今どきの用語でい
えば、

 

コモディティ化

 

してしまったわけです。

 

なので、別にテクニックに優れている
からといって、質の高いものを生み出
しているからといって即ウケるわけで
も感心されるわけでも、ましてや売れ
るわけでもないという、なかなかある
意味では切ない時代になったなあと、
思ったある一日、というお話でござい
ました。

 

あ、別にだからといってテクニック
を身につけるということに意味がない
とか、名人を目指すなとか、主張する
気はありませんので。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

 

努力する時 vs. 手持ちでなんとかする時?

間、何かを習得しようとす
るときには少しずつでも成長
ようと思うわけですね。たぶん。

 

音楽でも同じで、楽器の演奏なんても
のはいろんなこまかい技術の習得の積
み重ねの上に成り立っていえるわけで
すよね。まあ、知識的なこともありま
すけど。

 

ですが、演奏のテクニックとかそうい
う特に人の身体性に関わってくるもの
については、

 

どこかで限界が見えてくる

 

ということもあるわけです。まあ壁に
ぶつかるというかね。天井でもいいで
すが。

 

特に、アラカンとかそれ以上になると
そりゃ身体的に衰えもするわけですよ
ね。

 

いやそうじゃない、そんなものに限界
はないとか、努力しだいだとか、そん
な議論もあるかもしれませんが、そう
いうポジティブ一辺倒でこられても、
なかなか前に進める人は多くないので。

 

それで心病んだりしてもつまらない
でね、

 

とりあえず手持ちのものでなんとかす

 

というような発想で臨むことが必要に
なってくるんではないか、と思うわけ
です。

 

その一方、

 

だから努力が 100% 不要であるとか、
そこまで大上段に構える必要もない
思ったりもするわけです。

 

人間その人、その立場とか状況とか、
そういうものによって、どこまで努力
するか、手持ちでなんとかするのか、
配分を考えるのが良いのではないか。

 

そんなことを、とある休日音楽仲間と
お酒を飲みながら考えた、というよう
なお話でございました。

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

時には跳んでみる?(メロディーも人生も?)

ール・ポータという人の書
いたスタンダード・ナンバーで
 “I Love You” というのがありま
す。▼▼▼

 

すごくどストレートなタイトですよ
ね。歌詞の方も「春がまたやって来て
/鳥たちも再び翼を広げ」とかそんな
わりと陳腐な感じのフレーズが入って
たりするんですが。

 

これ、実はコール・ポーターが友人
こういうタイトルこんな歌詞を使
って素晴らしい曲を作ってみろ、とい
挑戦を受けて、それで書いた曲なん
だそうです。つまりポーターらしいヒ
ネリのないタイトルや歌詞で良い曲を
かけるか? というわけでして。

 

結局この曲はミュージカルの中で使わ
れて、その後ビング・クロスビーが歌
ってヒットし、スタンダードナンバー
になるわけなんですね。つまりポータ
ーの勝ちだったわけです。

 

「素晴らしいメロディーは凡庸な歌詞
を凌駕する」とかポーターはいってた
らしいですが。

 

でね、

 

ポーターの言うようにこの曲はメロデ
ィーに特徴がありまして。曲の冒頭
そのまさに I Love You という歌詞に
あわせて、上の C から下の Db に跳ぶ
というところがあるんです(ちなみに
よく演奏されるキーFでの場合です)。

 

つまり、長7度下跳び降りている
ですね。この冒頭部分につけられた
ード(サブドミナント・マイナー系)
とともに意表をつく出だしとなってま
して、この冒頭部分によってこの曲の
印象はほぼ決まっているといっても過
言ではないかも(まあ中間部の転調と
か他にもなくはないですが)。

 

曲を作る時、流れるような綺麗に音の
つながったメロディーを生み出したい
と思うことも多いですが、印象に残る
メロディラインが生まれるのは、音の
跳躍が挟まれたときだったりします。

 

つまりスケール上のとなり(たとえば
メジャースケールだったらド→レとか
ソ→ラとかですね)やすぐ近くの音
動いていくのではなく、ちょっと遠い
音へと跳ぶ動きが生まれた時ですね。

 

もちろん年がら年中跳びまわっていて
も落ち着かないので、バランスではあ
るのですけども。

 

人間も、人生でときには日常に流され
ずに「跳ぶ」ことが求められることが
あるのと一緒かな? なんて思ったり
して……あまり関係ないか。ま、でも
そんなことをちょっと考えた、と。

 

※原文は:It’s spring again / And 
birds on the wing again

 

て、ことで。

 

では、また ( ̄▽ ̄)

イメージで考える? 音楽も?

承知のように、私 50 歳以上
の方々を中心としたセッション
んていうのを開催しているのです
が。

 

なんとなく思っていたのが、そういう
場でイキイキとというか水を得た魚の
ように演奏する方たちって、

 

理系の仕事をしてた人に多い

 

ということなんですが。

 

より正確にいうと、理系というか、特
に専門のプログラマーとまではいかな
くても、プログラミングの知識のある
方が多いな。と、なんとなく思ってい
たんですが。

 

そしたら、最近人間の思考タイプの話
をちょっと読んだのですが、人間には
視覚思考型言語思考型があって、ど
うも特に音楽のスキル的に優れた人に
は視覚思考型が多いと書かれていたん
ですね。

 

もうちょっと細かくいうと、実は視覚
思考型は、写真とか短い動画のような
リアルな画像で考える「物体思考型」
とよばれる人と、もうちょっと抽象的
な概念とかパターンで思考する「空間
思考型」に別れるそうで。

 

そして、プログラミングとか音楽
キルに優れた人には「空間思考型」
多いという話のようなんですね。

 

で、まあ、なるほどね、と。思ったわ
けなんですが。

 

まあ、こういう人間のタイプ分けは、
いつもいうように、話半分くらい
に聞くようにはしてるんですけど。何
となく、セッションで感じている印象
には近いなという気がした、というお
話でした。

 

ですが、

 

とはいえ、セッションというアクティ
ビティは何人かの集団でおこなう共同
作業なので、

 

いろんな人がいたほうが結局面白い結
果になる

 

とも思うのですね。

 

別に空間思考型の人だけでやればいい
という話ではないとは思うので、そこ
間違えないようにしないとね。

 

て、ことで、

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

人は教則本に自分の○○を見る?

楽の教則本については、前に
も書きましたが。

 

前回書いた時には、何で音楽の教則本
というのは、挫折するとかしないとか、
読まないで本棚にたまるばかりとか、
そんなどんな本にでもあることを、
りたてて騒ぐ人が多いのか? なんて
ことを書きました(気がします)。

 

で、まあ、

 

そんなことどうでもいいじゃない(あ、
野口五郎だ)というような話ではあり
ますが、ちょっと思いついたことがあ
ったんですけど。

 

音楽の教則本というのは、その内容的
に、

 

読む人の未来を想像させてしまう

 

のですよね。

 

つまりその本を読んで、そこに書かれ
ていることをマスターして、早い話
奏が上手になった自分、というのを
メージさせるわけです。

 

で、買う、と。

 

そうすると、人はその本を見るたび
演奏が上達した(たぶん実現しないか
もしれないけど)未来を思い起こさせ
られるわけですね。

 

そういう意味ではフツーの本に比べる
と人間が執着するレベルは高くなる
かな、と思ったりしたわけです。

 

なので、それを捨てるということは、
(ありえるかもしれない可能性として
の)自分の未来を捨てる、ということ
なわけで。心理的ハードルは高いです
よね。

 

結果として、なかなか捨てられない
ね。と考えたということでございまし
た。

 

まあ、それが人間てもんなので、それ
でいいんじゃない? と思うわけです
が。

 

て、ことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

明日から ○○% の本気出す?

間、頑張らなきゃいけない、
力を入れて取り組まなきゃいけな
いなんてことは誰しも(たまには
?)あるわけですが。

 

そんなとき、じゃあ 100% 全力で取り
組むのがいいのかというと、色々と
が分かれます。

 

まあ、昔からよくあった考え方は、な
にごとも全力で取り組むのがいいとか、
120% 出し尽くせなんていうのかもし
れないんですが。

 

さすがに最近「バーンアウト」とか
「燃え尽き症候群」とかいうこともよ
くいわれるようになってきたので、そ
れを全面的に主張する人少なくなっ
てる気はするんですけどね。

 

でも、なんとなくわれわれの心の中
100% 出し切る人感動したり共感
したり、称賛したりする気持ちがまだ
まだある気も一方ではします。いかが
ですか?

 

で、

 

そうはいっても、100% 全力出せ的な
考え弊害が大きいというのは常識
なってきたので、じゃあどこまでを求
めるのか? という問題が出てくるよ
うで。

 

100% を求めるのは良くないとしても
じゃあ、テキトーでいいよ、ともいえ
ないでしょうからね。

 

この前読んだ記事では、「85%」とい
う数字が出てました。100% の努力で
はなくて、85% にしていこう、という
話なんですね。85% の正しい判断85
% の集中。そうすることで、余計なプ
レッシャーを与えることが避けられる
ということらしいです。

 

まあ、この 85% という数字の根拠
どこにあるのか、記事を読んだだけで
よくわからなかったんですけど、な
んとなく、

 

80% というと割引率(?)が高すぎ

 

な感じがするし、

 

90% というと全力とあまり変わらない

 

感じがするので、まあ結構いい感じな
のかもなあ、と。

 

そんなことをほぼ何事にも 100% 全力
で取り組むことはなくなってしまった
おじさんは考えたと、いうようなこと
ではございました。

 

皆さんは何%くらいがお好みですか?
え? 50%? やっぱり?……

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

フレディは膵臓をロックするか?

まに、音楽が医療の役に立つ
とか、立ちそうとか、そんな記事
を見たりします

 

以前にも、こんなのがありましたけど。

 

また最近、こんな記事が出てたんです
よ。音楽系のサイトじゃなくて、ビジ
ネス系の Forbes の記事ってところが、
ちょっとなんか、信憑性ありそうとい
うか、そんな気にさせられたりして。

 

ま、あまり関係ないとは思うんですが。

 

それはともかく、内容としては、音楽
それもロックよりピンポイントには
ユー」を流すとインスリンをつくる細
からインスリンが活発に放出される
……らしい、という話で。

 

これは、培養された細胞への効果とい
うことなので、実際人間に「ウィ・ウ
ィル・ロック・ユー」を聞かせても、
ほんとに同じ効果があるかどうか判明
するのはまだまだ先のことではあるよ
うですが。

 

ともあれ、もしかしたらそのうち糖尿
病の治療にクイーンを聴かせるなんて
音楽療法が出てくるかもしれません。

 

しかし、なんでクイーン、しかもなん
で「ウィ・ウィル・ロック・ユー」
んでしょうかね? さまざまな音源
流した結果だというんですが。

 

重低音が効くというのはなんとなくわ
かる気もするんですが、やっぱりあの
「ドッ・ドッ・タッ」というリズムの
パターンが効くんでしょうか?

 

なんにせよ、ロック・ミュージックが
健康によさそうという話、多いですよ
ね。いいことなのかもしれませんが、
ますますロックは高齢者の音楽という
イメージが強くなったりしてね(笑)

 

ま、殺伐とした状況の世の中で、こう
いう話は平和でいいのかもしれません
けどね。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

謎解きはお好き?(続き)

ちらの続きですが……

 

世の中、いろんなこと謎を解いてく
れるなんてコンテンツが溢れてるけど、
最近あんまりそんなモノに興味がなく
なってきた、というようなお話でした
が、ってことですが。

 

仕事短時間で成果を出す! とか、
そんな話が私にはもう昔のものになっ
たせいもあるんでしょうけど(まあ、
昔もそんな短時間に成果を出すとか
にやってた方じゃないですが)。

 

音楽なんかについても、音楽理論の肝
心なところとか、グルーヴ感がどうだ
とか、どうやったらジャズらしい演奏
ができるのか、とか。

 

そういった「謎」答え素早く知り
たい、なんてことを昔は思っていた
じゃないかと思うんですが。なんか、
最近は別にだんだんどうでも良くなっ
てきたというか、ね。

 

まあ、私が言うのもなんなんですが

 

とくに、仕事で急いで成果出さなきゃ
いけないなんていうのと違って、音楽
なんていうのは、いちおうアーティス
ティックな活動ですからね。

 

なんでこうなっているんだろう? と
か、このグルーヴの違いはどこから
るんだろうとか、そういった答えを急
いで求めるよりは、そんな「謎」とか
「違和感」をそのまま感じて置いて
おくというか、いったん放置しておく
というかね。

 

そんな風にしておくのが、実はいい
じゃないか、そこで、短期的な成果
求める必要ないんじゃないか。

 

なんていうか、身体にいったんしみ込
ませることをやった方がいいんじゃな
いか、なんてね。

 

まあ、思ったりもしていると、そんな
お話でございました。

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

謎解きはお好き?

解き、お好きですか?

 

世の中には色んな謎解きが溢れてます
よね。

 

いわゆるミステリー系のお話としての
謎解きっていうのもももちろんあるわ
けですけどね。今日の話は、それより
も、現実にあることについて、色んな
色んなテーマで、色々と謎解き
しているというそんな現象についてが
主眼なんですが。

 

例えば、古代史の謎を解く、なんてい
歴史系もあるし、国際情勢の謎を解
くとか、ストーリーが難解な映画の謎
を解くとか、まあ色々と。

 

そして色んな人が、そんな謎解き
ログとか、動画とか、SNS とかで語
ていて、多くの人がそれを読んだ
見たりしてますよね。

 

某アニメ監督最近作について、訳わ
からないとかいう感想が色々出てきた
あとに、じゃあその謎解きをしてあげ
よう、みたいな動画が一時期溢れてた
とかね。

 

そういうのが溢れているというのは、
そういう謎解きを求める人が結構いる
ということなんでしょうかね。

 

で、

 

自分を振り返ってみてもですね、とく
以前はそんな風に自分のよく分かっ
てないことについて、バッサリ謎解
というか解説・説明をしてくれる、
なんていうコンテンツ結構好んでい
気もします。

 

やっぱり働いていたりしていた頃は、
時間的な効率、今で言うタイパを求め
やすかったのかもしれません。

 

なんですけど、

 

なんかこう、最近仕事とかにあまり追
われることも少なくなってくると、

 

別に急いで謎解きしてもらわなくても
いいか……

 

なんて思うようにもなってきたんです
よね。

 

ちょっと続きます。

 

てことで。

 

では、また  ( ̄▽ ̄)

 

 

許せる失敗、許されない失敗

事を辞めてしまうと「失敗は
許されない」なんてシチュエーシ
ョンに立つことはまずなくなるん
ですよね。

 

お気楽なことばかり書いてて申し訳な
んですけど。

 

実は仕事してるときでも本当に絶対に
失敗が許されないなんてことがあった
のか? というと、けっこう怪しい
もするんですけど、まあ、それはおい
といて。

 

そんな「失敗が許されない」時にどう
対処したらいいか? そんな時の緊張
を和らげるためにどうするか? なん
記事を読んだんですよ、最近。

 

で、ここでその対処法の良し悪しとか
を議論したいわけではないんですけど
ね。ただ、読んでて急に音楽の演奏の
こととか考えたりしたわけですよ。
いクセ(?)で。

 

この記事の最後に「失敗が許される趣
味を持つ」ことで人生のバランスをと
る、という対処法が書かれてたので、
そのせいもあるかと思いますけど。

 

それでね、

 

音楽という活動は、単なる趣味として
考えると別に失敗しても問題ないとい
うか、許されるモノのはずなんですよ
ね。でも、なんかちょっとのめり込む
とある時点で、「失敗は許されない」
なんて気持ちにさせると思いません?

 

その人がプロのミュージシャンとかだ
ったりしたらまあわかるんですけど、
趣味の領域だとしても、失敗をしない
ように自分を追い込んだりする人、結
構いないですか?

 

人それぞれだと思うんで、「失敗をし
ても全然気にしない」から「失敗は絶
対に許されない」まで、個人個人で
ラデーションはあるとは思うんですけ
どね。

 

あまりに「失敗は絶対に許されない」
の側に寄ってると、色々大変だろうな
とは思うんですけどね。

 

皆さんは、どっち寄りですか?

 

て、ことで、

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

チャーチ・モードと赤い帽子の共通点?

の前、フランス語の「上手
・下手(かみて・しもて)」の
を書きましたが。

 

そういえば、全く関係ないんですが、
フランスの歴史に関係するを読んで
いたら、

 

フリジア帽

 

という物について書かれていたんです
ね。

 

フリジア帽というのは、赤い三角帽
して、サンタクロースが被ってる帽子
に似てます。古代ローマでは解放され
た奴隷が自由になった証に被るものだ
ったそうで、そのため、サン・キュロ
ットと呼ばれるフランス革命の中心と
なった人々象徴ともなったそうで。

 


▲こういうやつです

フランスでは今でも革命精神を伝える
と考えられていて、今度のパリ・オ
リンピックやパラリンピックマスコ
ットはこのフリジア帽をモチーフにし
ているんだそうです。

 

で、

 

まあ、そんなフランスの革命史にまつ
わる帽子なわけですが、この「フリジ
ア帽」という名前を聞いて、これって
ジャズとかで使われる

 

フリジアン

 

というモード(音階)と関係があるん
じゃないか、と思ったわけです。

 

そしたら、やっぱりどうもそのようで、
いわゆる教会旋法(チャーチ・モード)
と呼ばれる音階の1つであるフリジア
ン・モード古代ギリシャの音階の名
前から来ているようで、その名前は
リュギア(フリギア)という地名から
きているということだそうで。

 

そして、この帽子もフリュギア地方に
起源があるようなんですね。

 

まあ、現代のフリジアン・モードと古
代ギリシャのフリギア音階はどうも
じとはいえないようですが(古代のフ
リギア音階は今で言うドリアン・モー
に近いのだとか。知らんけど)、と
もかくも名前の由来は同じ地方の地名
らしいです。

 

て、まあそんな話なわけですが、もう
一つちょっと意外に思ったのは、この
フリュギアという地方は、実は今でい
うトルコの中部あたりにあったという
ことなんですね。

 

チャーチ・モードって元々は古代ギリ
シャから来ているなんていうことを聞
いていたので、フリュギアというのも
今のギリシャのどこかだろうと漠然と
思っていたのですが、まあ、考えてみ
れば、古代ギリシャの範囲というのは、
今とはだいぶ違っていたのですよねえ。

 

アレクサンダー大王征服した土地と
いうのは広大だったわけですし。

 

とまあ、フリジアという言葉から、
音階古代史近代史と、様々に
思いが(?)乱れ飛んだことがありま
した、と。そんなお話でございました。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)