アドバイスおじさんとネット

かれてもいないアドバイスを
したがるおじさん、という話題が
バズったのって、もう何年か前な
わけですが。

 

それで、そんなおじさん駆逐された
のかというと、おそらくそんなことは
ないわけですよね。きっと今日もそん
なおじさんはアドバイスをまき散らし
ているのでしょう。しらんけど。

 

で、さて、

 

人間、仲間というか自分を支援したり
共感したりする人がいてくれるのはや
はり嬉しいものだとは思うわけですが。

 

とはいえ現実には、

 

放っておいてほしい

 

思う時もあるわけです。

 

色々考えていたりとか、ひたすらイン
プットを精力的にしようとか、集中的
練習したいとか。いろいろ。

 

そんな時に周りからあーでもない、こ
ーでもないと言われると、やはり気が
散るのでね。そういう聞かな
後回しにするようにしたいわけです
よね。

 

 

ところが、今の世の中、そうしたいと
思っても周りから色々余計なものが流
れ込んできて、それを目にしたり耳に
したりするわけです。

 

それはアドバイスという形だったり、
人の成功事例だったり、他人のリア充
な写真だったりします。

 

そういう時、いかに自分をいい感じで
「放っておかれる」状況にできるか
いうのが結構大切だと思うんですが。
その一方、今って、SNS やらのおかげ
「アドバイス」が世の中に満ちあふ
れてるわけです。

 

つまり実は今のネットというのはそれ
自体が「聞いてもいないアドバイスを
くれるおじさん」的存在なんじゃない
か、ということでして。

 

そんな中でいかに自分を「放っておか
れる」ようにできるか、というテクニ
ックというのも大事だよなあと。

 

そんなことを思ったのではありました。
抽象的ですみません。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

体調の変化は気圧のせいなのか問題について

風が来ると気圧が下がります
よね。

 

台風は「熱帯低気圧」といわれる低気
圧の一種なので、当たり前といえばそ
うなんですが。

 

そうすると、気圧が下がることで体調
に変化が出る人がいますよね。そんな
話は前にも書いた気がします。もちろ
んそんな体調の変化は感じない、とい
う人もいると思いますが。

 

皆さんはいかがですか?

 

実はそういう体調の変化を感じる
でして、だいたい気圧が下がる時
頭が痛くなるわけです。頭というか、
正確にいうと首筋の後ろ側あたりが特
に痛むことが多いわけですが。

 

ただ、それを自覚するようになったの
は、いつかというと、そんなに古い話
ではない気がするんですよね。端的に
いえば、世の中で気圧と体調の関係に
ついて色々言われだしてから、ではな
いかと思うわけです。

 

その前は、別に台風が来ても、通勤ど
うしよう(その頃はまだ会社勤めして
たので)とか、窓ガラスは大丈夫だろ
うかとか、そんな心配はしてましたが
体調については、特に気にしていなか
った気がするんですよね。

 

でね、

 

そうすると、そういう気圧による体調
の変化というのは、実際に起きている
のか、それともそんな気にさせられて
いるのか、実は良くわからない。そん
な気もしてくるわけです。

 

 

気圧が体調に影響する、なんていう
を知らなければ、そんな体調の変化
感じなかったのかもしれません。
もそもそれは事実なのか? 事実とは
何なのか? なんてことも考えたりし
てね。

 

しかし、気圧の変化を無視して生活で
きないようになってしまっている自分
という現実もあるわけで。もはやそこ
から逃れる術もない気もしますが。

 

人間の心(脳?)と体調の関係なんて
なんか良くわからないですよね。

 

すみません、ヒマです。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

ロスト・イン日常生活?

んかこの話の続きみたいなこ
となんですけど。

 

今の世の中って、ボーッとしてると
ントに色んなことが起こって過ぎ去っ
いきますよねえ。

 

半年前のことがもやたら遠い過去のよ
うに思えたりしません?

 

たとえば、あの選挙のこととか、あの
暗殺未遂事件とか、そこまで大きくな
くてもあの芸能人やら政治家スキャ
ンダルとか……

 

そういうのに乗り遅れたり忘れたり
ないようにたとえば Web やら SNS
目配りしようとするじゃないですか。
でも、結局いろいろあり過ぎて、脳の
処理能力越えてしまいません? 私の
年のせいですかね?

 

そうするとどうなるか?

 

結局、頭がボーッとなってしまうわけ
ですね。

 

超絶難しいコード進行の曲をやってる
うちに、なんかもうついていけなくな
って、立ち尽くす。なんていう感覚
近いものがありますね。

 

早い話「ロスト」してるわけです。

 

 

ロストなんて、ジャムセッションの中
だけでいいよと思うわけですが。もは
世の中全般についてロストしている、
なんて感覚日常化しているのではな
いか?

 

なんてことを考えているわけですが、
だからといって対策もなく。結局のと
ころただボーッとする今日この頃、と
いうお話でした。すみませんオチはな
いです。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

「継続は力」かもしれないけれど……

近、また高齢者が音楽をやる
メリットについての研究が発表さ
れた、という記事を見たんですが。

 

これがなんと(?)京都大学の研究な
んですが。▼▼▼

 

まず、4年前70歳すぎのそれまで
器未経験の高齢者に楽器(鍵ハモらし
いですが)を始めてもらって4ヶ月続
けたら認知・脳機能が向上した、とい
研究すでにあったらしいんですね。

 

で、今回はその4年後、その実験に参
加した人たちをまた集めて、最初の実
験の後ずっと楽器を続けてきた人たち
と、その後は別の趣味とかに移って楽
器は止めてしまった人たち比べた
ということらしいんですが。

 

そうしたら、楽器を止めた人たち(中
止群)には脳の機能に低下が見られた
のに対して、楽器を続けた人たち(継
続群)にはそういう低下が見られなか
ったという結果だったそうです。

 

 

で、

 

思ったんですが、確かにわれわれのよ
うな好きで楽器や音楽を続けている人
にとっては、これは良い話に聞こえ
ますよね。

 

自分の好きな趣味としてやってる音楽
脳の機能維持するのに役立つらし
いということなので。

 

でも、世の中にはそんなに音楽の演奏
にのめり込めない人だっていますよね。

 

そういう人たちに、脳のために楽器を
やれと、強制とまではいわないまでも
強く推奨とかいうになったとしたら、
それがそういう人たちのクォリティ・
オブ・ライフの向上につながるのか?

 

……なんてことを考えると、なかなか
難しいところもあるよなあ、なんて思
ったわけでして。

 

どう思われます?

 

まあ、好きでやってますから、
器は続けると思うんですけどね。でも
それはそれこれはこれ、かもなあと。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

パ〇タ男の謎?

SNS にあまり期待しない方がい
なこと書いておいてなんな
んですが……

 

そうはいいながらけっこう SNS に
毎日時間を費やしてましてツイ廃
んて言葉が脳裏を横切ったりします)。

 

この前、X(旧 Twitter)を覗いてい
たら、

 

パスタ男

 

という言葉をみつけたんですね。

 

インド料理店専門店総料理長イナ
ダシュンスケ(稲田俊輔)さん投稿
(というか質問への回答のリポスト)
で見たんですが▼▼▼

 

つまり、パスタ男というのは巷の店の
パスタに対して、

 

この程度であれば自分が自宅で作るも
のの方がよほどうまい

 

とか、

 

これは(本物の)○○○とは言えない

 

というような攻撃あびせかける男
ことをいうみたいなんですね。イナダ
さんはこういう物言いを「パスタ男構
文」と名付けていて、あるあるとか思
って笑ってしまったんですが。

 

 

パスタ男っていうネーミング・センス
がいいですよね。

 

でまあ、

 

音楽界隈にも、こういう「パスタ男構
文」的な言説はかなりはびこっていて。
一つ一つ間違いともいえないこと
言っているわけですが、でも総体とし
て、理解不能で、まあウザイというね。

 

いますよねえ。そういう人。

 

イナダさんは、そいういう人は「ざし
き童子(わらし)」的に畏れ敬いつつ
その領域には踏み込まず、その怪異を
語り継いでいくのがいい、と書いてま
すが。

 

まあ、音楽界隈聞いてもいないのに
色々言ってくる人についてもそんな風
に対処するのが吉かな、と思ったとい
うある日のことではございました。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

あえて薄くつながる?

間関係を拡げていこうとする
と、いろいろな人と「つながる」
必要があるわけですが。

 

そして、それは今の世の中では SNS
というものがあって、簡単に出来てし
まうように思えるわけですね。

 

実際簡単だし。

 

ただ問題は、

 

本当はつながらない方がいい人たちと
もつながってしまいがち

 

ということでして。

 

そうやってつながった人たちから、あ
るとき、いやそうじゃないとか、そん
なことを言うやつはダメだとか、そん
攻撃を受けたりする、なんてことも
起こりうるわけですね。この前の話み
たいに。

 

SNS でつながりが広がるとうれしくな
って(?)次の段階としてさらに強い
連帯のようなモノを求めてしまいがち
になるんですかね。どうもそこでそう
いう悲劇が起こりがちな気がします。

 

SNS で得られるつながり薄くしてお
いて、より深い連帯とかは別の場で求
めた方が良いと思うんですけどね。

 

そこはそれ、なにか「次のレベル」の
つながりもまた SNS 上で作ろうと思
ってしまうんでしょうか。理念とか、
思想とか、マニフェストとか、そんな
ものを表明したりして。

 

 

でも、そうするとえてしてそういった
理念とかに賛同する側と反対する側
いう区別顕在化してしまうんですよ
ね。

 

それがいいことか良く考えた方がよ
のでは? と思いながら SNS 上の
騒ぎとかを眺めたりしております。

 

て、ことで。

 

それでは、また。 ( ̄▽ ̄)

 

セッションの問題の解決は現場にしかない?

の前、某所でセッションを主
宰してらっしゃる方が、ジャズと
いう音楽についての意見を某 SNS
で表明されたらなんか大騒ぎ……
みたいなことを書きましたが。

 

いろいろ異論反論が出て、そればかり
誹謗中傷にさらされてもいるらしい
よくわからんけど、という状況だった
わけですが。まあ大変だなあと思いつ
つ、傍観者的に見ていたわけなんです
けどね。

 

その後の様子を見ていても事態が終息
する方向でもなく、どの人の意見が正
しいとかもっともだとか、そういう
意形成にいたる動きもないようで。

 

相変わらず言いたいことを発信しつづ
けて、それぞれに賛同する人のかたま
りが何となく出来ている、という状況
ですね。で、意見の違うかたまりとか
たまりの間には、前より深い溝が出来
てしまっているようで。

 

まあ予想はしてたんですが、あまりに
も予想通りで、傍観してる側もなんか
暗い気持ちになったりしますけど。

 

思うに、そもそも個別の現場で個別事
案的に対処して済ますのが良いことを、
問題意識にかられて、抽象度を上げた
形で理念的に語っても、それが生産的
な議論になることはまずないんですよ
ね。とくに SNS なんていう場では。

 

 

ジャムセッションなんだから、現場で
解決するのが良いのでは? なんて思
うわけですよ。

 

まあ色々思いが溢れて物申したくなる
こともあるんだよ、ということなんで
しょうし、その気持ちわからないじ
ゃないんですけどね。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

「らしさ」を生むものとは?

の前、LとRの区別をネイテ
ィブが間違えないなんて本当か、
なんてことについて書いたんです
が。

 

そのとき、こんな言語学者の人のやっ
てる YouTube のチャンネルがあって
……なんて紹介をしましたが。

 

だいたい YouTube ってのは、一度何か
を観るとそれに関連してこんなのはど
う? なんておススメをしてくるわけ
で。

 

昨日も同じチャンネルの動画を観てし
まったんですが。そのテーマが、

 

go という動詞の過去形が went

 

であることについて、だったんです
よね▼▼▼

 

いわゆる不規則変化動詞の話なわけで
すが、なんでそうなったかというと、
went というのは、go と似た「行く」
という意味の wend という別の単語の
過去形だったのが借用されたというこ
とらしいんですが。

 

まあ理由はそういうことなんですが、
なぜその went という形が今まで残っ
ているのか? という理由についても
解説されてまして、まあ、あくまで動
画をやっている方の考える1つの仮説
なのですが、

 

そういう不規則な変化があることで、
英語に不慣れなよそ者識別する手が
かりになるからでは?

 

ということでして。

 

 

合理的に考えれば、なんでも規則的に
変化したりするように揃えてしまった
方が良いように思えるけど、必ずしも
そうはならない、というのが面白いと
ころですね。Go の過去形が went
なるのは、英語の「らしさ」だともい
えるわけで。Goed じゃどうも、ね。

 

で、

 

音楽ジャンルによる違いというかそ
ジャンルの「らしさ」なんてのも、
そういうズレとか不規則性が効いてく
よなあ、と。それと似てるのかも
れないとか、考えたりもしたんですよ
ね。

 

アクセントの置き方とか、シンコペー
ションとか、スケールとか……

 

て、ことで。

 

それでは、また。 ( ̄▽ ̄)

 

 

アラカンは「半身」である?

う1年以上前に『なぜ働いて
(通称『なぜはた』)という本に
ついて書きまして▼▼▼

 

この時はこの本読もうかどうしようか
なんて書いてましたが、まあやはり
タにした(?)以上読まないとな、と
いうことで読んだんですよ、そういえ
ば。もうしばらく前ですが。

 

この本、まあ結構なベストセラーにな
って、もいくつか獲ったりして、
評も沢山あるので、内容のことについ
てここで詳しく語るつもりはないので
すが。

 

結局、この本でいわれているのは、
の社会だと「働く」ということはその
人の全身全霊を要求されるので、本が
読めなくなるということだと思うんで
すが。

 

これって、結局読書だけじゃなくて、
他の趣味的な活動にも言えることだと
思うんですよね。音楽なんてのもその
最たる物の一つかもしれません。

 

だからバンドマンを目指す若者は、
規に就職することなく活動することが
圧倒的に(?)多いわけですね。そう
本の話もしましたっけ。

 

で、

 

ただ思うに、それが一生というか、会
社人生の最後まで続くかというとそう
でもないという現実もあるわけでして。
アラカンとかいわれる年代に近づいて
くると、全身全霊で働くという感じで
もなくなってくるわけです。

 

『なぜはた』著者三宅香帆さん
いう「半身(はんみ)」で働けるよう
になってくるということですかね。

 

個人差はあるでしょうけどね。

 

 

そうなってくると、久しぶりにまた楽
器やってみようかとか、昔やろうと思
ったけど手が出せなかった音楽活動を
やってみようかとか、そんなことを
えたり、実際にやってみたりもするわ
けですね。

 

なので、そんな「半身」で働く体制が
とれるようになった人のために、私や
仲間たちはアラカンセッションという
のを始めた、と。まあ後付けですが、
いえるのではないか、と。

 

半身でセッション。楽しいですよ。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)