セッションの問題の解決は現場にしかない?

の前、某所でセッションを主
宰してらっしゃる方が、ジャズと
いう音楽についての意見を某 SNS
で表明されたらなんか大騒ぎ……
みたいなことを書きましたが。

 

いろいろ異論反論が出て、そればかり
誹謗中傷にさらされてもいるらしい
よくわからんけど、という状況だった
わけですが。まあ大変だなあと思いつ
つ、傍観者的に見ていたわけなんです
けどね。

 

その後の様子を見ていても事態が終息
する方向でもなく、どの人の意見が正
しいとかもっともだとか、そういう
意形成にいたる動きもないようで。

 

相変わらず言いたいことを発信しつづ
けて、それぞれに賛同する人のかたま
りが何となく出来ている、という状況
ですね。で、意見の違うかたまりとか
たまりの間には、前より深い溝が出来
てしまっているようで。

 

まあ予想はしてたんですが、あまりに
も予想通りで、傍観してる側もなんか
暗い気持ちになったりしますけど。

 

思うに、そもそも個別の現場で個別事
案的に対処して済ますのが良いことを、
問題意識にかられて、抽象度を上げた
形で理念的に語っても、それが生産的
な議論になることはまずないんですよ
ね。とくに SNS なんていう場では。

 

 

ジャムセッションなんだから、現場で
解決するのが良いのでは? なんて思
うわけですよ。

 

まあ色々思いが溢れて物申したくなる
こともあるんだよ、ということなんで
しょうし、その気持ちわからないじ
ゃないんですけどね。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)

 

「らしさ」を生むものとは?

の前、LとRの区別をネイテ
ィブが間違えないなんて本当か、
なんてことについて書いたんです
が。

 

そのとき、こんな言語学者の人のやっ
てる YouTube のチャンネルがあって
……なんて紹介をしましたが。

 

だいたい YouTube ってのは、一度何か
を観るとそれに関連してこんなのはど
う? なんておススメをしてくるわけ
で。

 

昨日も同じチャンネルの動画を観てし
まったんですが。そのテーマが、

 

go という動詞の過去形が went

 

であることについて、だったんです
よね▼▼▼

 

いわゆる不規則変化動詞の話なわけで
すが、なんでそうなったかというと、
went というのは、go と似た「行く」
という意味の wend という別の単語の
過去形だったのが借用されたというこ
とらしいんですが。

 

まあ理由はそういうことなんですが、
なぜその went という形が今まで残っ
ているのか? という理由についても
解説されてまして、まあ、あくまで動
画をやっている方の考える1つの仮説
なのですが、

 

そういう不規則な変化があることで、
英語に不慣れなよそ者識別する手が
かりになるからでは?

 

ということでして。

 

 

合理的に考えれば、なんでも規則的に
変化したりするように揃えてしまった
方が良いように思えるけど、必ずしも
そうはならない、というのが面白いと
ころですね。Go の過去形が went
なるのは、英語の「らしさ」だともい
えるわけで。Goed じゃどうも、ね。

 

で、

 

音楽ジャンルによる違いというかそ
ジャンルの「らしさ」なんてのも、
そういうズレとか不規則性が効いてく
よなあ、と。それと似てるのかも
れないとか、考えたりもしたんですよ
ね。

 

アクセントの置き方とか、シンコペー
ションとか、スケールとか……

 

て、ことで。

 

それでは、また。 ( ̄▽ ̄)

 

 

アラカンは「半身」である?

う1年以上前に『なぜ働いて
(通称『なぜはた』)という本に
ついて書きまして▼▼▼

 

この時はこの本読もうかどうしようか
なんて書いてましたが、まあやはり
タにした(?)以上読まないとな、と
いうことで読んだんですよ、そういえ
ば。もうしばらく前ですが。

 

この本、まあ結構なベストセラーにな
って、もいくつか獲ったりして、
評も沢山あるので、内容のことについ
てここで詳しく語るつもりはないので
すが。

 

結局、この本でいわれているのは、
の社会だと「働く」ということはその
人の全身全霊を要求されるので、本が
読めなくなるということだと思うんで
すが。

 

これって、結局読書だけじゃなくて、
他の趣味的な活動にも言えることだと
思うんですよね。音楽なんてのもその
最たる物の一つかもしれません。

 

だからバンドマンを目指す若者は、
規に就職することなく活動することが
圧倒的に(?)多いわけですね。そう
本の話もしましたっけ。

 

で、

 

ただ思うに、それが一生というか、会
社人生の最後まで続くかというとそう
でもないという現実もあるわけでして。
アラカンとかいわれる年代に近づいて
くると、全身全霊で働くという感じで
もなくなってくるわけです。

 

『なぜはた』著者三宅香帆さん
いう「半身(はんみ)」で働けるよう
になってくるということですかね。

 

個人差はあるでしょうけどね。

 

 

そうなってくると、久しぶりにまた楽
器やってみようかとか、昔やろうと思
ったけど手が出せなかった音楽活動を
やってみようかとか、そんなことを
えたり、実際にやってみたりもするわ
けですね。

 

なので、そんな「半身」で働く体制が
とれるようになった人のために、私や
仲間たちはアラカンセッションという
のを始めた、と。まあ後付けですが、
いえるのではないか、と。

 

半身でセッション。楽しいですよ。

 

て、ことで。

 

それでは、また。( ̄▽ ̄)